2024-10-18
東京での写真展
東京での写真展
2024-10-02
ランカウイの厳しいステージ
ランカウイの厳しいステージ
2024-09-28
ゆいの壁
ゆいの壁
2024-09-12
砂田弓弦全国巡回写真展 @ 富山
砂田弓弦全国巡回写真展 @ 富山
2024-09-09
自転車と紅茶のおみせ ゆいの壁
自転車と紅茶のおみせ ゆいの壁
我が青春のパネットーネ
1985年、大学をまだ卒業していないにもかかわらず、卒業証書を友達に取りに行ってもらうことにして、2月にイタリアに渡りました。
行き先も分からず、一言もイタリア語が出来なかったのですが、1週間ほどでミラノ郊外に風呂のないボロボロの住まいを見つけました。
秋に帰国したのですが、イタリアでの生活を当時発行されていたニューサイクリングという月刊誌から頼まれて書いたところ、思いがけず好評で、13ヶ月間に渡って連載されました。
その連載の出足はたしか、
「搭乗した大韓航空の飛行機は時々大きく揺れ、大学を卒業していないまま出国した僕は物理的にも社会的にも不安定な状態だった」という内容で、名文として自転車ファンの記憶にとどまることになりました(笑)。
ある日、辻堂の自転車屋さんに行ったところ、偶然ターザンの副編集長に出会い「君の連載を読むためだけにニューサイクリングを買っているよ。今度、なにか原稿を頼むかもしれない」と声をかけていただいたのです。
また、キリンビール主催の「あなただけのビールのおいしい飲み方」に応募して入選して本に掲載されたことも自信になりました。それは、のちにデルトンゴ、GIS、スーパーメルカーティ・ブリアンツォーリらのチームに入った近所の仲間たちといっしょに自転車に乗りに行き、途中でビールのオレンジジュース割りを教えられて実においしかったという内容でした。
これが、雑誌の仕事をやるきっかけなのですが、今回の話はイタリアのパネットーネです。前書きがすっかり長くなりました(笑)。
1985年、イタリアで毎日、昼と夜に近所の食堂に行ってました。オーナーの老夫婦はものすごく親切で、この二人がいなければ、今の自分は存在しません。食堂は繁盛していて、特にお昼は労働者たちで溢れ帰っていました。給仕を待ちきれないので、勝手に厨房に入って料理を取ってくる客が列を作っていました。誰かが「軍隊のセルフサービスと同じ」と笑っていました。
一方、夜は独身の男数人だけが毎日来ていて、この老夫婦を囲んでいっしょにご飯を食べていました。
僕は秋に日本に戻り、そしてクリスマスにこの老夫婦に電話しました。1985年当時の国際電話はまだ3分で3〜4千円したと思います。今みたいに、簡単に国際電話を掛けられる時代ではありませんでした。
そのとき、「イタリアで食べたパネットーネが懐かしいよ」と言ったら、夜集まっていた独身連中と老夫婦が金を出し合って、日本まで2個航空便で送ってくれたのです。郵送料だけで2万円ほどかかっていました。
当時、日本でパネットーネは入手出来ず、この味には感激しました。パネットーネは日持ちするのですが、春に全プロ選手権が富山で行われ、これを市内のホテルに宿泊されていた大阪のフレーム職人の長澤さんに差し入れしたところ、「富山のこんな田舎でパネットーネが食べられるなんで99.9%ない話だ」と感激してくださいました。長澤さんは中野さんの世界選10連覇にメカニックとして同行されたのはあまりに有名ですが、デローザでよく働いた日本人としても有名で、本場で何かを残すという意味で僕がずっと目標にし、尊敬してきた人でもありました。
今は1個5ユーロほどで購入出来るパネットーネは昔、もっと高いものでした。イタリアはこれまでずっと一貫してインフレの国なのですが、値段が下がった数少ないものの一つがこのパネットーネなのです。日本からあの老夫婦にかけた国際電話もまた近年急激に価格が下がったものの一つですが、そうしたことも思い出につながっています。
毎年、12月にイタリアに渡るのは、仕事や挨拶もあるのですが、実はこのパネットーネを買うためでもあるのです。もしかすると、今は日本でも手に入るものなのかもしれないですが、僕にとってパネットーネはいろんな思い出が詰まった味であり、イタリアで買うことに意味があるわけです。
これまで自転車の写真集を5冊、またその他を含めると8冊の本を出しました。今後、出す予定はないのですが、もしチャンスがあるならば、こうした思い出、取材エピソードをまとめたいとは思っています。
去年、別の内容の本を書くことを打診されて断ったのですが、いつかこの内容で書く機会があればやってみたいと思っています。そのときはきっと、「搭乗した大韓航空の飛行機は時々大きく揺れ、大学を卒業していないまま出国した僕は物理的にも社会的にも不安定な状態だった」だと思いますが(笑)。
写真は昨日から降った雪が積もった庭をバックに縁側で撮ったパネットーン(ミラノ弁)です。
行き先も分からず、一言もイタリア語が出来なかったのですが、1週間ほどでミラノ郊外に風呂のないボロボロの住まいを見つけました。
秋に帰国したのですが、イタリアでの生活を当時発行されていたニューサイクリングという月刊誌から頼まれて書いたところ、思いがけず好評で、13ヶ月間に渡って連載されました。
その連載の出足はたしか、
「搭乗した大韓航空の飛行機は時々大きく揺れ、大学を卒業していないまま出国した僕は物理的にも社会的にも不安定な状態だった」という内容で、名文として自転車ファンの記憶にとどまることになりました(笑)。
ある日、辻堂の自転車屋さんに行ったところ、偶然ターザンの副編集長に出会い「君の連載を読むためだけにニューサイクリングを買っているよ。今度、なにか原稿を頼むかもしれない」と声をかけていただいたのです。
また、キリンビール主催の「あなただけのビールのおいしい飲み方」に応募して入選して本に掲載されたことも自信になりました。それは、のちにデルトンゴ、GIS、スーパーメルカーティ・ブリアンツォーリらのチームに入った近所の仲間たちといっしょに自転車に乗りに行き、途中でビールのオレンジジュース割りを教えられて実においしかったという内容でした。
これが、雑誌の仕事をやるきっかけなのですが、今回の話はイタリアのパネットーネです。前書きがすっかり長くなりました(笑)。
1985年、イタリアで毎日、昼と夜に近所の食堂に行ってました。オーナーの老夫婦はものすごく親切で、この二人がいなければ、今の自分は存在しません。食堂は繁盛していて、特にお昼は労働者たちで溢れ帰っていました。給仕を待ちきれないので、勝手に厨房に入って料理を取ってくる客が列を作っていました。誰かが「軍隊のセルフサービスと同じ」と笑っていました。
一方、夜は独身の男数人だけが毎日来ていて、この老夫婦を囲んでいっしょにご飯を食べていました。
僕は秋に日本に戻り、そしてクリスマスにこの老夫婦に電話しました。1985年当時の国際電話はまだ3分で3〜4千円したと思います。今みたいに、簡単に国際電話を掛けられる時代ではありませんでした。
そのとき、「イタリアで食べたパネットーネが懐かしいよ」と言ったら、夜集まっていた独身連中と老夫婦が金を出し合って、日本まで2個航空便で送ってくれたのです。郵送料だけで2万円ほどかかっていました。
当時、日本でパネットーネは入手出来ず、この味には感激しました。パネットーネは日持ちするのですが、春に全プロ選手権が富山で行われ、これを市内のホテルに宿泊されていた大阪のフレーム職人の長澤さんに差し入れしたところ、「富山のこんな田舎でパネットーネが食べられるなんで99.9%ない話だ」と感激してくださいました。長澤さんは中野さんの世界選10連覇にメカニックとして同行されたのはあまりに有名ですが、デローザでよく働いた日本人としても有名で、本場で何かを残すという意味で僕がずっと目標にし、尊敬してきた人でもありました。
今は1個5ユーロほどで購入出来るパネットーネは昔、もっと高いものでした。イタリアはこれまでずっと一貫してインフレの国なのですが、値段が下がった数少ないものの一つがこのパネットーネなのです。日本からあの老夫婦にかけた国際電話もまた近年急激に価格が下がったものの一つですが、そうしたことも思い出につながっています。
毎年、12月にイタリアに渡るのは、仕事や挨拶もあるのですが、実はこのパネットーネを買うためでもあるのです。もしかすると、今は日本でも手に入るものなのかもしれないですが、僕にとってパネットーネはいろんな思い出が詰まった味であり、イタリアで買うことに意味があるわけです。
これまで自転車の写真集を5冊、またその他を含めると8冊の本を出しました。今後、出す予定はないのですが、もしチャンスがあるならば、こうした思い出、取材エピソードをまとめたいとは思っています。
去年、別の内容の本を書くことを打診されて断ったのですが、いつかこの内容で書く機会があればやってみたいと思っています。そのときはきっと、「搭乗した大韓航空の飛行機は時々大きく揺れ、大学を卒業していないまま出国した僕は物理的にも社会的にも不安定な状態だった」だと思いますが(笑)。
写真は昨日から降った雪が積もった庭をバックに縁側で撮ったパネットーン(ミラノ弁)です。